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インテルのズラタン・イブラヒモビッチは今シーズンオフの自身の去就について、移籍をにおわせる発言をした。今季のスクデット(セリエA優勝)と得点王の個人タイトルを獲得したスウェーデン代表FWは、「イタリアではすべてをやり尽くした」との率直な気持ちを明かした。

「シーズンがこのような形で終わって良かった。これ以上のシーズンを送れと言われても無理だっただろう。イタリアではすべてを手に入れた。スクデットを5回(はく奪されたユベントス時代の2回を含む)、イタリア・スーパーカップも1回勝ち取った。この国に来た当初は、多くの人々が僕のことを『ファンタスティックな選手だが、ゴールが足りない』と非難していたが、“カポカンノニエーレ”(得点王)となった今、自分の得点能力も証明できた。タイトルのコレクションを増やす以外、イタリアではこれ以上何ができるのか分からないね」

 レアル・マドリー、バルセロナといったビッグクラブが獲得に興味を示していると推測されるが、イブラヒモビッチは現時点では何も去就が決まっていないことを明らかにした。
「将来? 分からないね。まずはスウェーデン代表として6日のデンマーク戦と10日のマルタ戦を戦わなければならないので、現時点では何とも言えない。何かが起きるとしたら、この2試合の後だろう。今後どうなるかはじっくり見てみようじゃないか」


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ズラタン・イブラヒモビッチZlatan Ibrahimović, 1981年10月3日 - )は、スウェーデンマルメ出身でインテル・ミラノ所属のサッカー選手。ポジションはFW。愛称はイブラズラタニオイル・ジェニオ(Il Genio:天才)。

スピード、俊敏性、繊細なボールコントロール技術を有しており、シュートやアクロバティックなプレーで数多くのゴールを量産する。ドリブルやトラップの技術も高く、極めて高いボールキープ力を誇る。最大の武器はその全てを高次元で融合させたポストプレーである。

一方で、彼の課題は感情のコントロールと言われ、気性の強さがマイナス方向に働く事も多かった。ユベントス所属時代には、厳格な指導で知られるファビオ・カペッロ監督の下、少しずつ改善の様子を見せており、インテル移籍後は、熱くなったチームメートを自ら制止するなど、以前のようにピッチ内外で問題を起こすことは少なくなってきている。しかし、その実力は下記の個人タイトルや“天才”の愛称からも見て取れるように確かであり、世界最高のセンターフォワード(ターゲットマン)とされるが、大舞台でのゴールの少なさから“ビッグマッチに弱い”との見方もある。

また近年はフリーキックの精度も上がっており、チームではゴール前のFKのキッカーをつとめている

 

「イブラヒモビッチ」の名が示す通り、ルーツをバルカン半島に持つ彼は、スウェーデンに移住したボスニア人の父セフィクとクロアチア人の母ジュルカとの間に生まれた。幼い頃から、4点ビハインドの試合で交代選手として投入され8得点を奪うなど、「単独で局面を打開出来る」選手として傑出した才能を示す。1995年スウェーデン屈指の強豪であり自身の地元のクラブでもあるマルメFFと契約し、1999年にトップチームデビューを果たす。しかしそのシーズン、マルメFFは2部リーグ降格となった。主力選手が移籍していく中、イブラヒモビッチはこれを「レギュラー獲りのチャンス」と考え、その読み通りに翌シーズンレギュラーとして活躍。26試合12得点の成績を残し、チームの1部リーグ復帰に貢献した。

この活躍を見たアヤックスアーセナルなどのビッグクラブがイブラヒモビッチ獲得に乗り出し、特にアーセナルアーセン・ヴェンゲル監督が自ら背番号9を保証するなど懸命に獲得を試みたが、最終的には10代の選手としては破格の、そしてチーム史上最高額の780万ユーロ(約10億2200万円)の移籍金を提示したアヤックスに移籍した。そのアヤックスでかつてマルコ・ファン・バステンパトリック・クライファートヌワンコ・カヌなどが背負った背番号9を受け継いだ。ピッチ内外で度重なるトラブルを起こし、そのプレーよりも問題児ぶりをクローズアップされたものの、2001-2002シーズンのオランダカップ決勝で決勝ゴールを決めるなど徐々にチームの主力となった。2002-2003シーズンもUEFAチャンピオンズリーグで4得点、エールディビジで10得点を挙げ、レギュラーの座を不動のものとした。翌シーズンは足の故障のため3ヵ月欠場するが、復帰後は16試合13得点を記録し、PSVアイントホーフェンからの王座奪回に寄与すると、この年にカペッロ監督を招聘していたユヴェントスが獲得を画策し、1900万ユーロ(約26億円)もの移籍金で活躍の場をセリエAに移した。

当初は、アレッサンドロ・デル・ピエロダビド・トレゼゲに次ぐ3番手のFWと目されていたが、2004-2005シーズンのセリエA開幕戦ブレシア戦でデビューし、早速ゴールを挙げると、トレゼゲやデル・ピエロの故障もあって、カペッロ監督の信頼を得始める。彼らの復帰後もユヴェントスフォワード陣の柱となり、最終的に35試合16点の成績を挙げ、ACミランからのセリエA王座奪回に貢献した。2005-2006シーズンも2トップの一角として、ユヴェントスのセリエA首位独走に貢献した。2006/2007シーズンからは、ユヴェントスの審判操作疑惑によるチームのセリエB降格の影響により、2460万ユーロ(約37億円)の移籍金で昨シーズンまでと同じセリエAの強豪インテルへの移籍が発表された。

2006-2007シーズンはセリエA初年度の16ゴールには及ばなかったものの15ゴールを記録し、インテルの15度目のスクデットに貢献した。しかし、セリエAにおける活躍に対してチャンピオンズリーグでは無得点で、ベスト16で敗退した。

2007-2008シーズンは右膝の怪我に悩まされたものの、セリエAで17ゴールを記録しインテルの16度目のスクデットに貢献した。特にセリエA最終節のパルマFC戦では後半途中から投入されると2ゴールを奪い、この活躍でインテルは勝利。スクデット獲得を決めた。チャンピオンズリーグのグループリーグでは5ゴールを記録するも決勝トーナメント1回戦のリバプールFC戦では無得点に終わり、チームはまたしてもベスト16で敗退した。

2008-2009シーズンはチャンピオンズリーグではわずか1ゴールに終わりチームも三度ベスト16で敗退するも、セリエAでは得点を量産し、インテルのセリエA4連覇に貢献。自己最多の25ゴールを記録し、セリエA得点王に輝いた。

代表テビューは2001年1月31日フェロー諸島戦である。2002年韓日W杯の最終メンバーにも20歳の若さで選出されたが、グループリーグのアルゼンチン戦と決勝トーナメント1回戦のセネガル戦の2試合30分の出場にとどまった。
EURO2004の本大会からレギュラーに定着すると、グループステージ第1節のブルガリア戦でPKを決め、続く第2節のイタリア戦ではゴールに背を向けたままジャンプしながら踵でループシュートを決め、チームをグループステージ突破に導いた。準々決勝のオランダ戦、PK戦にもつれ込んだこの試合で3番目のキッカーとして登場するが、これを外し、オランダに敗れた。

2006年ドイツW杯欧州予選でも8試合8得点を記録し、スウェーデン代表として本大会への切符を手にした。しかし、代表でも試合前の国歌斉唱中に他のメンバーが歌っているのにもかかわらず、彼だけチューインガムを膨らましているシーンがテレビで放送され、国民から反感を買った。本大会でも活躍を期待されたが無得点に終わり、チームも開催国・ドイツに敗れベスト16にとどまった。2006年9月の欧州選手権予選期間中に「規律を守らなかった」としてクリスティアン・ヴィルヘルムションオロフ・メルベリらと共に同国代表を追放された。その後、二転三転あったものの、2007年3月の試合から代表復帰を果たした。

EURO2008ではグループリーグ第1戦のギリシャ戦で強烈なミドルシュートを決めた。このゴールはイブラヒモビッチの代表として実に2年8ヶ月ぶりのゴールとなった。試合はその後スウェーデンが追加点を決め2-0で前回大会王者であるギリシャを下した。第2戦のスペイン戦ではフェルナンド・トーレスに先制点を許すも自身の同点ゴールで試合を1-1とする。しかし後半ロスタイムにダビド・ビジャに決勝点を決められ、試合は1-2で敗れた。決勝トーナメント進出をかけて臨んだ第3戦のロシア戦ではフル出場するも不発に終わり、試合もロシアのエースアンドレイ・アルシャヴィンの活躍で0-2で敗れ、グループリーグ突破はならなかった。大会前からの自身の右膝の怪我もあり、不本意な結果で本大会を終えた。

ユヴェントス時代のチームメイトであるファビオ・カンナヴァーロに勧められて2006年2月に髪を丸刈りにしている。
テコンドーの有段者である。ハイボールをとらえるアクロバティックなシュートは、幼少時からのテコンドーのキック練習の賜物と言っている。
自分のヒーローはモハメド・アリだと明言している。
自らの所有するベンツで数回事故を引き起こしている。
好物はアップルパイ寿司
以前所属していたユヴェントスの試合の前、他の選手がウォーミングアップをしているさなか、チューイングガムでリフティングをしていた。
アヤックス時代は素行の悪さで何度も問題になったことがある。その中でも空中戦による肘鉄は猛威をふるい、相手選手が怪我をすることが多かった。現に2002-03シーズンには肘打ちにより5試合の出場停止処分を受けている。同じスウェーデン代表のFWマルクス・ローセンベリや、アヤックス時代の同僚ラファエル・ファン・デル・ファールトとは仲が悪いことで知られる。特にラファエル・ファン・デル・ファールトには、オランダとの国際試合で彼を殴り負傷させ、退場に追い込んだ。また、同じく当時同僚であったミドとロッカールームで喧嘩をし、ハサミを投げつけられてもいる。ユヴェントスからインテルへ移籍する会見で「自分はインテリスタだ」と発言し、ユヴェンティーノから激しい顰蹙を買った。11歳年上の妻と息子が一人居る。妻の名前はヘレン、息子の名前はマキシミリアン。


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