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シャビ・アロンソをけがで欠くリバプールのベニテス監督は、中央にマスチェラーノとルカス・レイバを起用した。そのリバプールがシャビ・アロンソの不在を感じさせない試合展開で前半から優位に試合を運んだのに対し、ウェストハムはGKレイナの守るゴールをほとんど脅かすことができなかった。
リバプールは開始早々の2分、フェルナンド・トーレスの長いスルーパスから、抜け出したジェラードが、飛び出した相手GKをかわして先制ゴール。38分にはウェストハムのボアモルテが自陣ペナルティーエリア内でトーレスを倒してしまい、リバプールにPKを与えてしまった。ジェラードが蹴ったPKは一度はGKグリーンに阻まれたものの、こぼれ球に走り込んだジェラードが再び押し込んで、リバプールが2点目を奪った。
対するウェストハムは、リバプールの守備陣のミスからディ・ミケーレがゴール前まで攻め込みGKレイナと1対1になったが、ペナルティーエリア内で体勢を崩して転倒。ディ・ミケーレはPKを要求したが、主審はこれをシミュレーションと判断し、ウェストハムは決定的なチャンスを逃した。
後半に入るとリバプールは守備を固め、トーレス、カイト、ジェラードのスピードを頼りにカウンターを狙った。すると、これが功を奏しカイトが決定的なチャンスを迎えたが、ここはGKグリーンの好セーブに阻まれてしまった。
リバプールの最後のゴールは、トーレスに代わって72分から途中出場したバベルが生み出した。84分、バベルが頭で押し込んだボールはGKグリーンにはじかれたが、これを自ら蹴り込んで3点目。そのまま試合は終了し、3-0でリバプールが快勝した。
この勝利により、リバプールはマンチェスター・ユナイテッド(マンU)を得失点差で上回り暫定で首位に立った。そして、10日に行われるマンU対マンチェスター・シティのダービーマッチ、そして13日に行われるウィガン対マンUの2試合の結果を待つことになった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090510-00000015-ism-socc
スティーヴン・ジェラード
幼少の頃からマイケル・オーウェンらと共にリヴァプールFCのアカデミー (下部組織) で才能を磨き、1998年に右サイドバックとしてトップチームデビューを飾る。デビュー当初は荒っぽい守備が目立ち、たびたびカードをもらっていたが、そのダイナミックな攻撃参加はリヴァプールの未来を感じさせた。その後、当時のリヴァプールFCキャプテンであったジェイミー・レドナップが怪我がちだったこともあり、ポジションを中盤にコンバートされ、1999-2000シーズンにはレギュラーに定着する。2000年5月のウクライナ戦では19歳にしてイングランド代表に初招集。直後のUEFA欧州選手権2000においても代表メンバーに選ばれ、第2戦のドイツ戦で29分間出場している。翌2000-2001シーズンではリヴァプールの主軸として活躍。カップ・トレブルを達成したUEFAカップ決勝では、オーウェンからのアシストを受けて見事なゴールを記録している。
2001年9月1日日韓ワールドカップ予選、ミュンヘンでのアウェードイツ戦ではオリバー・カーンを始めとする堅守を、得意のミドルシュートで破り逆転ゴールを挙げ、5-1の記録的大勝に貢献した。
順風満帆に見えたキャリアであったが、2002年日韓ワールドカップ本大会には怪我で出場できず、2002-2003シーズンのプレミアリーグ最終戦のチェルシーFC戦では、勝った方が4位でUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得という状況の試合であったにもかかわらず、試合中に不用意なレッドカードを貰ってしまい、出場権を逃してしまう。しかし、翌2003-2004シーズン途中にサミ・ヒーピアからキャプテンを受け継ぐと、秘めたるポテンシャルが一気に開花した。同シーズン、チームはUEFAチャンピオンズリーグ出場権を争う位置にいたが、シーズン終盤のジェラードの大活躍によって最終節を待たずして4位を決め、前年の汚名を返上。シーズン後にチームの大エース・オーウェンが移籍した時、一時はジェラードにもチェルシー移籍の話が持ち上がった。しかし記者会見で残留を明言。この言葉はオーウェンを失ったサポーターを大いに勇気づけた。そして、名実ともにチームの顔となる。 サポーターからは『オーウェンならまだ耐えられる。でもジェラードは絶対にダメだ』とオーウェンの移籍の際に告げられており、ジェラードあってのリヴァプールとなった。ジェラードはオーウェンの移籍後は同じくアカデミー育ちのジェイミー・キャラガーとともにチームを牽引している。
翌年は、リーグ戦で低迷するチームを鼓舞しながら、UEFAチャンピオンズリーグにおいては、GL突破のためには2点差以上の勝利が義務付けられた最終戦のオリンピアコスCFP戦で、試合終了間際にミドルシュートを決め3-1とし、チームを決勝トーナメントへ導く。決勝トーナメントでは得点こそなかったものの、存在感を示しチームは決勝戦へと進出。決勝のACミラン戦では3-0のビハインドを覆す逆転優勝[1]を決めるきっかけとなるヘディングシュートを決めてみせた。ゴール直後のチームメイトとサポーターへむけた『盛り上がれ!』というパフォーマンスは有名である。また、このシーズン終了時に再びチェルシーへの移籍が報道された。代理人が「交渉は修羅場になった」と発言するほど契約延長交渉は乱れたようだが、これはジェラード本人とクラブ側との些細な思い違いから始まったものであった。正式な会談を持った結果、ジェラードはあっさりとチームへの残留を決めた。
2005年12月には、FIFAクラブワールドカップでヨーロッパ代表として来日。リヴァプールは準優勝に終わったが、テレビの宣伝などで日本での知名度は一気に上がった。
イングランド代表でも不可欠な選手とされており、2006年のドイツW杯で2得点をあげる活躍をしたことから、本人も望むイングランド代表の次期キャプテンはジェラードで決まりだと噂されていたが、デビッド・ベッカムからキャプテンマークを引き継いだのはライバルチームのチェルシーのキャプテン、ジョン・テリーだった。
2000年代のリヴァプールの象徴であり魂でもある選手で、100年を超すリヴァプールの歴史を通しても、サポーターからはケニー・ダルグリッシュと並ぶ最高殊勲選手と目されている。その証として、2000-2001シーズンUEFAカップ、2002-2003シーズンFLカップ、2004-2005シーズンUEFAチャンピオンズリーグ、2005-2006シーズンFAカップと、タイトルを獲得したあらゆるカップファイナルで優勝に導くゴールを挙げている。
2008-2009シーズンUEFAチャンピオンズリーグのPSVアイントホーフェン戦において、自身100ゴール目となるフリーキックを決めた[2]。
2009年3月22日、アストン・ヴィラFC戦で、自身リーグ戦初のハットトリックを達成した。
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