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レアル・マドリーのファンを対象に「来シーズンに向けてどの選手の加入を望むか」というアンケートを実施したところ、大部分のサポーターの夢は「白いユニホームをまとったクリスティアーノ・ロナウドを見ること」であることが分かった。
 ところが、10日に行われたマンチェスター・ユナイテッド(マンU)対マンチェスター・シティ(マンC)戦で途中交代を命じられたC・ロナウドが、アレックス・ファーガソン監督に対して怒りをあらわにした出来事が物語るように、同選手の激しい性格がレアル・マドリーに“スーパースター獲得”を再検討させる可能性も十分あるようだ。

 昨年の夏にC・ロナウド獲得に失敗したレアル・マドリーだが、今夏は同選手を1億ユーロ(約131億円)で獲得することで、マンUと合意を取り付けたとも言われている。だが、同選手がマンC戦で見せた“醜態”は、レアル・マドリーの野望にブレーキをかけかねないだろう。シーズンオフに行われる同クラブの会長選挙への出馬が確実視されており、その場合は有力候補になると見られているフロレンティーノ・ペレス元会長は、前回の在任時には、選手に対して「ピッチ内外での模範的な態度」を要求していたほどマナーに厳しいからだ。

 とはいえ、ペレス氏がC・ロナウド獲得に疑問を抱くとすれば、それは同選手の礼儀を欠く態度だけが原因ではないようだ。「1億ユーロの移籍金は高すぎる」と考えるペレス氏は、自身が会長選挙に勝利した場合、この金額を8000万ユーロ(約105億円)以下に抑える方向で交渉に臨むと見られている。


1985年2月5日、クリスティアーノ・ロナウドは大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ諸島フンシャルという町に生まれる。家族は両親の他に4人の兄弟がおり、ロナウドは末っ子にあたる。父親のディニスは公務員として働く傍ら、地元のアンドリーニャというサッカークラブの管理を手伝っており、ロナウドはこのクラブで6歳の時にサッカーを始める。4年後の1995年にアンドリーニャに在籍していた人物が運営するCDナシオナルに入団。この頃からロナウドの名が注目されはじめ、一年後にスポルティング・リスボンのスカウトを受けて、母親と共にリスボンへ移住。しかし、リスボンの学校には馴染めず、登校を避けるようにユースアカデミーに通うようになり、終には退学する。

一方サッカーでは急速な成長でユースを駆け上がり、ロナウド17歳となる2001年9月29日のブラガ戦でプロデビュー。以降25試合に出場し、クラブ史上最年少ゴールも決めるがすぐさまリスボンを離れることになる。

マンチェスター・ユナイテッド

ユナイテッドでコーチを務めるカルロス・ケイロスは、ロナウドがデビューした時分から注目しており、ロナウドの獲得を逸早く監督アレックス・ファーガソンに進言している。ロナウド獲得には当時リバプールも積極的に動いており、一時期リバプールへの移籍が本人のコメントからも予想されたが、プレミアリーグ03-04シーズン開幕3日前の8月10日に移籍金1,224ポンド(当時の日本円にして約24億円)5年契約でユナイテッドへの入団が決定。更にベッカムがレアル・マドリードへ移籍したことで、空いた背番号7の着用が決まる。因みに当初ロナウド自身はトップチームの全選手を含めて空き番号になっていた28を希望しおり、背番号7はファーガソンの指名で決まっている。

プレミアリーグ03-04シーズン、オールド・トラッフォードボルトンを迎えての開幕戦にロナウドは控えとしてメンバー入りし、後半16分からの途中出場でプレミアデビュー。以後、比較的先発で出場することが多くなるが、控えと先発を行き来するような状態で、ファーガソンが上手く振り分けていたとされる。[1]

06-07シーズンは17ゴール、14アシストと共に自己最多記録をマークし、チームの優勝に貢献。自身もPFA年間最優秀選手賞FWA年間最優秀選手賞を受賞した。また、バロンドールの投票ではカカに次ぐ2位となった。翌07-08シーズンは開幕からゴールを量産し、チームのリーグ2連覇に貢献。アラン・シアラーの持つシーズン最多得点記録タイの31得点で得点王になった。プレミアリーグの上位チームに対して目立った成績を残していないと揶揄する声もあるが、実際には31得点のうち5得点を3位から5位までのチームから奪っている。これらの活躍でPFA年間最優秀選手賞とFWA年間最優秀選手賞を2シーズン連続で受賞。

2008年5月21日に行われた07-08チャンピオンズリーグでは、決勝の大舞台でチェルシーからゴールを奪い、ユナイテッド9シーズンぶりのCL優勝に貢献し、自身も得点王を受賞。PK戦では3番目に蹴るも、ペトル・チェフにコースを読み切られてセーブされてしまう。チェルシーは5人目のキッカーのジョン・テリーが雨でぬかるんだピッチに足を滑らせて痛恨のミスキックで外し、ユナイテッドGKのファン・デル・サールの好セーブによって、ユナイテッドが勝利。その瞬間、ロナウドはピッチに倒れこんで号泣し、ガリー・ネヴィルライアン・ギグス、アレックス・ファーガソン監督らに助け起こされてようやく味方の歓喜の輪に加わった。

これらの活躍が認められ、この年のバロンドールとFIFA最優秀選手賞をダブル受賞。

2008年夏、ロナウドはレアル・マドリードへの移籍騒動でチームを騒がせる。マンチェスター・ユナイテッド側は契約期間を4年残しているにもかかわらずレアル・マドリードからの執拗なオファーにしびれを切らし法的手段に出るところまで話が大きくなるが、最終的にアレックス・ファーガソン監督の「お前がいなくなったら自分も監督を辞める」という熱心な説得により残留を決意。この件については、本人が公式ホームページにて「ユナイテッドもレアル・マドリードと同じく夢の一つだったが、タイトルを全て獲得したためもう一つの夢で新しい挑戦をする時期だと思った」と語っており、また残留に関しては「監督と話しあった結果、ユナイテッドに残る事がベストという事になった」と言っている。将来については「それは神様が決めること」と言葉を濁しているが、今回の移籍騒動については「(両クラブやその関係者にではなく)自分に責任がある」としている。

代表

ポルトガル代表では既にレギュラーを確保しており、ポルトガルの将来を担う若きスタープレイヤーである。プレースタイルなどからルイス・フィーゴの後継者と評する声もある。EURO2004では初戦のギリシャ戦で代表初得点を決め、全試合に出場して準優勝に貢献。また、同年に開催されたアテネ五輪・サッカーにも出場。この大会で、ロナウドは、モロッコ戦で1ゴールを記録した。ドイツワールドカップでも代表の主力メンバーとして活躍。EURO2008本大会にて、フィーゴの7番を継承した。

プレースタイル

敵陣を切り裂く鋭敏なドリブルが特徴的な世界屈指のWG。初期に比べると抑え気味になりつつあるが、シザースを多用したフェイントを駆使し、小刻みに踏むステップを織り交ぜたフェイントで突破を図る。時折エラシコやラボーナ等の試合中において高度な技も見せ、一種のパフォーマンスのような形で個人技を披露することもある。イングランドに来た当初は球離れの悪さで決定的なタイミングを逃したり、ドリブル突破が必ずしもチャンスに繋がらなかった為に批判もしばしば浴びていたが、近年はチームプレーを重視しつつ必要と判断すれば個人技を繰り出すというスタイルに変え、ドリブル自体も速いタイミングでゴールへ向かうことが多く、随所に得点を意識したプレーが見られる。

利き足でない左足も器用に使うため左右どちらのサイドでも実力を発揮でき、形は違えど両サイドから高い精度のクロスを放り込み、両サイドどちらからでも中に切り込みシュートを放てる。ジュニーニョアンドレア・ピルロの妙技で知られる無回転シュートを収得しており、年々FKの精度も向上している。また、WGの選手には珍しくCKの際にはゴール前で競り合いに参加し、ジャンプ力を活かした打点の高いヘディングでしばしば得点を記録する。接触プレーにおいては倒しにきた相手には逆らわずに倒され、ファウルからのFKを狙うことが多い。本人はダイバーとされることを強く否定している。

チームが守備的に固める時は、1トップを任せられることが多い。ルーニーやテベスらの前線の選手に比べ、運動量、守備意識が低く、また前線の広大なスペースで活きるプレーヤーであるためとされる。



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 レアル・マドリーの今シーズンは、前節バルセロナとの直接対決に惨敗(2-6)した1週間後に幕を閉じた。一方、来季のチャンピオンズリーグ(CL)出場圏内を確定したいバレンシアは、高いモチベーションをもって9日のホームでの試合に臨んだ。希望を失ったチームと、最後まで上位を目指して戦うチームとのモチベーションの差は歴然だった。クラブの誇りを守ることさえ放棄したレアル・マドリーにとっては、この一戦はもはや消化試合以外の何物でもなかったのかもしれない。

 バレンシアは試合開始から相手陣内へ攻め込み、前線のマタ、シルバ、ビジャがレアル・マドリーのDF陣を翻ろうした。前半5分、バレンシアは早くもチャンスをつかみ、バラハが至近距離でヘディングシュートを放ったが、ここはかろうじてGKカシージャスが阻んだ。バレンシアの優勢は明らかだった。

 レアル・マドリーは、ガゴとハビ・ガルシアのダブルボランチが機能せず、大部分の選手が自陣に貼り付けにされ、守るのが精いっぱいとなった。このレアル・マドリーの後退を尻目に、バレンシアのバラハは中央の位置から左右にボールを展開し、攻撃を組み立てた。これにマタ、シルバ、ビジャが反応し、前線のコンビからゴールが生まれるのは時間の問題だった。

 そして迎えた29分、左サイドからのシルバの折り返しからビジャがショートパスを出すと、これを受けたマタがゴールを決め、見事なコンビプレーでバレンシアが先制した。勢いづいたバレンシアは、その3分後にも左サイドからシルバが持ち込んで、立て続けにゴールを奪った。この時点で勝負はついた。

 空中分解したレアル・マドリーは反撃する気力がなく、組織だったプレーが全く見られないままバレンシアに一方的に試合を支配された。対するバレンシアは、大車輪の活躍を見せたバラハのスペクタクルなシュートで試合を締めくくった。68分、パブロ・エルナンデスが右サイドからパスを浮かすと、落ち際のボールをバラハがそのまま左足でダイレクトボレー。これが完ぺきにジャストミートし、レアル・マドリーゴールに突き刺さった。

 この結果、バレンシアはCL出場圏内の4位をキープ。一方、2位のレアル・マドリーが敗れたため、首位バルセロナは10日に行われるビジャレアル戦に勝てば、3節を残してリーグ優勝を決める。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090510-00000105-reu-spo

レアル・マドリード

1902年に創設。ホームスタジアムはエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ。現在は、リーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオンに所属し優勝回数は国内最多31回、更にUEFAチャンピオンズリーグの優勝回数は大会創設期の5連覇を含む9回と世界最多を誇り、FIFAにより「20世紀最強のクラブ」に認められた、世界屈指の超名門クラブである。

因みに、同チーム創設当初のスペインにはサッカーを統括する団体がなく(スペインサッカー連盟は1909年創設)、また、同チームが唯一のサッカー団体であったため、スペインを代表してFIFAの創設メンバーに名を連ねた。

FCバルセロナ、アトレティコ・マドリードの両クラブとは永遠のライバルである。バルセロナとの対戦はエル・クラシコ (El Clásico) と呼ばれ、100年近く因縁の対決を続けている。アトレティコ・マドリードとの対戦はマドリードダービー (Derbi Madrileño) と呼ばれ、この2試合は非常に白熱している。ちなみに、この3クラブをスペイン3大名門クラブと言う。

また、一般的にはサッカークラブチームが有名だが、バスケットボールのクラブチームも持つ、総合スポーツクラブである。スペインバスケットボールリーグ1部ACBのレアル・マドリード・バロンセストがそれであり、優勝回数1位を誇る屈指の名門クラブである。

カルデロンは2006-07シーズン前に行われた会長選に勝利するとタイトル奪還に向けて始動した。手始めに、セリエAの八百長問題でセリエBに降格したためユヴェントスの監督を辞任したファビオ・カペッロを新監督として招聘。規律を重んじ、1996-97シーズンにリーグ優勝の経験があるカペッロにチーム編成も一任した。カペッロはユヴェントス時代の教え子ファビオ・カンナヴァーロやエメルソン、またオリンピック・リヨンのリーグ・アン5連覇に貢献したマアマドゥ・ディアッラを獲得し長年の懸案だった脆弱な守備面を立て直すとともに、攻撃面でもマンチェスター・ユナイテッドで起用法に不満を漏らしていたルート・ファン・ニステルローイ、母国スペイン凱旋を希望していたアーセナルのホセ・アントニオ・レジェスを獲得し、就任直後から堅守速攻型のチームを作り上げた。またシーズン序盤にトーマス・グラベセン(スコティッシュ・プレミアリーグのセルティックへ)やジュリオ・バティスタ(プレミアリーグのアーセナルへ)など余剰戦力を放出すると共に、衰えを見せてきたロナウド(2007年1月、セリエAのACミランへ移籍)やデビッド・ベッカム(2007年夏、メジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーへ移籍)をベンチ要員にするなど、ペレス時代に作り上げた銀河系軍団の解体も行った。

また冬の市場では近未来を見据えてマルセロ、フェルナンド・ガゴ、ゴンサロ・イグアインの3人の若手選手を獲得し、スタメンで起用するなど世代交代も図っている。ここ数年は南米路線を取っていたが、若手をカンテラ(下部組織)から昇格させるのではなく国外の選手を集めるやり方に不満の声が出ている。最終的に2006-07シーズンはリーガ・エスパニョーラのタイトルを4シーズンぶりに獲得するも、10年前と同様にサポーターから「守備的すぎる」との批判が噴出し、クラブからも「我々の求めるスペクタクルなサッカーではない」とされ、タイトルを4シーズンぶりに獲得したのにも関わらずシーズン終了後にカペッロは解任された。

その後、前ヘタフェ監督のベルント・シュスターが新監督に就任。移籍市場でも活発な動きを見せ、ヴェスレイ・スナイデル、アリエン・ロッベンらを総額1億ユーロ以上の大金を注ぎ込み獲得。一方でフランシスコ・パボン、アルバロ・メヒアらカンテラ出身の選手を多く放出、フロレンティーノ・ペレスが掲げた「ジダネス&パボネス」は完全に終結した。2007-08シーズンは、ライバルのFCバルセロナやビジャレアルとの直接対決を制するなど、史上最多となる勝ち点85で18年ぶりとなるリーガ・エスパニョーラ連覇を達成した。またクラブは、2008年2月にチームの象徴イケル・カシージャス、ラウール・ゴンサレス、グティの3人と生涯契約を結んだ。

2008年8月の移籍市場では以前から興味を寄せていたマンチェスター・ユナイテッドのクリスティアーノ・ロナウド獲得に全力を注ぐも同クラブのアレックス・ファーガソン監督の激しい抵抗に遭い失敗、さらに同選手獲得を巡りクラブとの関係が悪化していたロビーニョをマンチェスター・シティへ放出した。新加入選手はラファエル・ファン・デル・ファールト、ルベン・デ・ラ・レッド(買い戻しオプションを行使され、ヘタフェから復帰)、ハビ・ガルシア(同様に、オサスナから復帰)、エセキエル・ガライ(ラシン・サンタンデールに1年間の期限付き移籍により、2009年夏より加入の予定)のみとなった。

2008-09シーズン中には、成績不振でシュスターを解任。後任には前トッテナム監督のファンデ・ラモスが就任し、さらに冬の移籍市場ではクラース・ヤン・フンテラール、ラッサナ・ディアッラらを獲得した。

しかし、2009年1月、カルデロンにクラブ総会での不正投票操作疑惑が浮上。同年1月16日、カルデロンはその責任および混乱収拾のため会長職を辞任した。2009年6月14日に行われる次期会長選までの間、後任は副会長だったビセンテ・ボルダ氏が務める。



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