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チャンピオンズリーグ(以下CL)は現地時間27日に決勝が行なわれ、バルセロナ(スペイン)がエトーとメッシのゴールで2対0とマンチェスターU(イングランド)を下し、3シーズンぶり3度目の王座に輝いた。国内リーグ、カップをすでに制しているバルセロナにとっては、初の国内外三冠達成となった。ロイター通信が伝えている。

 2連覇を狙う前回王者マンチェスターUと世界一ともいわれる攻撃力を誇るバルセロナ。先ごろイングランドとスペインの王者に輝いた両チームが激突した、『ドリーム・ファイナル』とも名付けられた試合の幕は、ローマのスタディオ・オリンピコで切って落とされた。

 立ち上がりはマンUがペースをつかむ。守備ラインのレギュラーふたりを出場停止で欠くバルセロナに対し攻めにかかったマンUは、クリスティアーノ・ロナウドが中心となり立て続けにシュートを放つと、2分にFKを獲得。C・ロナウドが狙ったキックはバルサGKビクトル・バルデスが辛うじて弾き、こぼれ球に朴智星(パク・チソン)が詰めたが寸手のところでバルサDFプヨールにクリアされる。

 一方、しっかりとした組織から徐々に攻勢を探るバルサは、10分、右サイドから切れ込んだエトーがヴィディッチをかわしてシュート。これがGKファン・デルサールの腕を弾いて決まり、一気に優勢に立つ。ここからは、巧みなポジショニングと持ち前のドリブルで試合を作ったメッシを軸に、バルサ攻撃陣が輝きを増す。

 1点を追うマンUは、後半開始からアンデルソンに代えてテベス、66分には朴智星に代えてベルバトフを送り込み、なんとか反撃の糸口を探すが、バルサ守備陣の前にボールが収まらない。これに対し、バルサは52分のシャビのFKこそ惜しくもポストに嫌われたが、70分、シャビの送った正確なクロスをメッシがヘッドで決めて追加点。これで、エトー、アンリ、メッシの3人の今季得点合計は実に96点となった。結局、取るべき人が取ったバルサが2対0とマンUを退け、3シーズンぶり3度目の王座に輝いた。

 なお、バルサはすでにリーガ・エスパニョーラとスペイン国王杯(コパ・デル・レイ)を制しており、初の国内外三冠達成となった。 

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ティエリ・ダニエル・アンリThierry Daniel Henry 、1977年8月17日 - )は、フランス共和国パリ出身のサッカー選手。FCバルセロナ所属フランス代表。プレミアリーグ歴代最多となる4度の得点王受賞をはじめ、FWA(Football Writers' Association、サッカーライター協会)の投票によるFWA年間最優秀選手賞を3度受賞、PFA年間最優秀選手賞を2度受賞と数々の個人タイトルを獲得し、現代のフットボール界を代表するFWの一人として認知されている。愛称は「ティティ」。


15歳頃に、フランスサッカー学院(INF/クレールフォンテーヌ)で英才教育を受け、フランスU-15にも選出される。本人が語るところによると、INF卒業後にベルサイユのクラブに1シーズンだけ在籍しており、22試合に出場し76得点を記録しているとのこと[要出典][1]。この時にASモナコのスカウトが視察した試合で7得点を決め、16歳の時に父アントワーヌが仮契約書にサインしモナコに入団。

モナコの下部組織での活躍により、当時トップチームの指揮官であったアーセン・ベンゲルに抜擢され、17歳の誕生日を迎えた2週間後の1994年8月31日にOGCニース戦でリーグ・アンデビュー。1994-95シーズンは8試合に出場し3得点の成績を残した。なお、この当時のアンリのポジションはFWではなくWG。1995-96シーズンはリーグ・アン年間最優秀選手に選出され、母国で開催された欧州U-19選手権のメンバー入りも果たす。1996-97シーズンには36試合に出場し9得点でチームのリーグ優勝に貢献。UEFAカップ1996-97でも初得点を記録する。

1998-99シーズン半ばに監督ディディエ・デシャンとの衝突が原因でユヴェントスに移籍。モナコでは起用法を巡ってのすれ違いから退団を決めたが、移籍先のユヴェントスでも不慣れな左SHでの出場を余儀なくされ、実力を殆ど発揮できずに3得点でシーズンを終える。その頃に、モナコでアンリをトップチームに抜擢したアーセン・ベンゲルから「もし、イタリアでうまくいかなければ、私がまた獲得する」と促されており、その言葉を追うように1999年8月3日にベンゲルが指揮を執るアーセナルに入団。この件にはアーセナルがニコラ・アネルカをレアル・マドリードに約45億円で移籍させた背景もあり、アンリ獲得のためにアーセナル側が積んだ金額はアネルカの移籍で得た収入の約半分である。

 

アーセナル時代

ニュータイプのFWを構想をしていたベンゲルは、アンリをWGからCFにコンバートする。移籍初年度こそ新境地のポジションに戸惑いも見せるも、翌プレミアリーグ2000-01シーズンからは実力を遺憾なく発揮し、得点数こそ昨シーズンと同じながら敵陣のタッチライン際を快足をもって突破していくシーンは観戦者に強烈な印象を与えた。2001-02シーズンには24得点で得点王に輝き[2]、チームは勝ち点87ポイント得失点差43でプレミアリーグとしては2回目のリーグ優勝を果たす[3]。またFAカップも優勝し、ダブルを達成。

2002-03シーズンは惜しくも優勝を逃し、アンリ自身も得点王を逃すが得点数は昨シーズンと同じく24ゴールを記録し、PFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。チームの総得点数はリーグ最多の85得点と全体として高いパフォーマンスを誇った。またFAカップ2連覇。

2003-04シーズン、チームは26勝12引き分け勝ち点90ポイントと無敗優勝を成し遂げ、アンリは30得点で得点王に返り咲く。2年連続でPFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。この時期のアーセナルはしばしば「The Invincibles(無敵)」と讃えられた。アンリの他にパトリック・ヴィエラやロベール・ピレス、シーズン途中で移籍することになるシルヴァン・ヴィルトールといったフランス人選手が主力として顔を揃え、監督のベンゲルも含めて「フレンチ・コネクション」と呼ばれた。

2004-05シーズン、アンリは25得点を記録し2年連続で得点王に輝き、更に3年連続でFWA年間最優秀選手賞を受賞。チームは無敗記録を49試合にまで伸ばし、1977-78シーズンにノッティンガム・フォレストが達成した42試合無敗記録を27年振りに更新。49試合ぶりの黒星はマンチェスター・ユナイテッドに喫した。アーセナルは勝ち点83ポイント得失点差51で2位。またFAカップ王者に1年ぶりに返り咲いた。

2005-06シーズン、7年間アーセナルの主将を務めたパトリック・ヴィエラがユベントスに移籍し、アンリはゲームキャプテンを任せられる。アンリ自身は27得点を記録し得点王を3年連続で受賞するも、チームは4位でシーズンを終え2連覇を果たしたチェルシーとの勝ち点差は24ポイント。一方で、欧州フットボール界の七不思議とまでいわれ勝てない時期が続いたUEFAチャンピオンズリーグでは連続無失点試合の記録を更新し、決勝でバルセロナに敗れるも準優勝と健闘した。

2006-07シーズンは怪我で大半の試合を欠場し、得点王連続記録もここで途絶える。チームの大黒柱の代役を務めたとは言い難いが、アンリのポジションにはエマニュエル・アデバヨールやロビン・ファン・ペルシーといった新鋭の台頭も見られ、チームの急速な世代交代により栄華を極めた時代の選手はアンリ以外殆ど退団していた。2007年6月、2400万ユーロでバルセロナへの移籍が決まる。

 

バルセロナ時代

リーガ・エスパニョーラ2007-08シーズン、前線のFW陣にアンリがどう融和するのかが注目されたが、根本的なところのスペインサッカーのスペースの少ないゆったりしたスタイルに戸惑い、また左WGのような役割に徹することで終始低調なプレーが続き30試合12得点でシーズンを終える。

2008-09シーズンに入り復調の兆しを見せ始めている。

 

代表

フランス代表としてのアンリの経歴は15歳の時にまで遡り、早くからその才能を世界の舞台で輝かせている。本格的な国際大会の初陣としては母国で開催された欧州U-19選手権で、決勝の対スペイン戦では決勝弾を決める活躍で優勝に貢献した。またマレーシアで開催されたワールドユースにもメンバー入りし、後のA代表の主力となるニコラ・アネルカ、ダビド・トレゼゲと3トップを形成している。因みにこの大会ではアンリよりトレゼゲの評価が高かった。

代表デビューは1997年10月11日の対南アフリカ戦。

1998年フランスW杯のフランス代表メンバーに選出され、決勝のブラジル戦以外の6試合すべてに出場。通算3得点に終わるも、フランス代表はグループリーグを全勝で勝ち上がり勢いそのままにW杯初優勝。新世代の台頭を予感させるジネディーヌ・ジダンやリリアン・テュラムの存在が輝る大会となった。その2年後にベルギーとオランダで共催されたEURO2000のメンバーにも名を列ね、同じく3得点を記録。フランス代表は今大会でも優勝を果たし、欧州国のなかで史上初となるW杯と欧州選手権を立て続けに優勝した国となった。

2002年にフランス代表の中心選手として日韓W杯に挑むも予選敗退。アンリはグループリーグ2戦目となったウルグアイ戦でレッドカードで退場となってしまい、そのまま3戦目のデンマーク戦にも出場できず戦犯とされる事態に発展した。同大会のフランス代表はロベール・ピレスが右膝の靭帯断裂で代表に招集されなかったことや、ジダンの左腿の肉離れによる欠場といったことが敗退要因として挙がったが、それでも世界有数の選手を揃えた優勝候補国であることは変りなく、大会早々に大波乱という話題を振りまいて姿を消した。

自国開催となったFIFAコンフェデレーションズカップ2003では2大会連続優勝。この大会ではジブリル・シセと2トップを組むことが多かったが、先発と控えを作らないというチームの方針で全試合には出場していない。日本戦は控えに回ったが、アンリコールを繰り返す大歓声に応える形で後半35分に途中出場。チェイシングを仕掛ける中田を反転して突破し、小笠原のスライディングを読んで交わすなど実力の片鱗を見せつけた。

2004年6月にポルトガルで開催されたEURO2004では、フランス代表はBグループ首位で決勝トーナメント進出を決めるも試合内容は前回王者とは思えないほど精彩を欠いており、とりわけ前々から囁かれていたアンリの代表不調はここにきても変わることはなく、決勝トーナメント1回戦で今大会の王者となるギリシャの一発により敗退。フランスは2大会連続欧州王者とはならなかった。

ジダンが引退表明をして臨んだ2006年ドイツW杯では3得点を決めチームの準優勝に貢献。準々決勝のブラジル戦で決めたゴールはジダンのアシストによるもので、1997年のA代表デビュー以来ジダンから受けた最初で最後のアシストとなった。この世界を代表する点取り屋と司令塔の因縁はEURO2000以降のフランス代表を雄弁に物語っている。

EURO2008の予選ではチーム最多の6得点を記録し、ミシェル・プラティニが持つフランス代表の最多得点レコードを更新。 しかし、本大会ではオランダ戦の1得点だけに留まり、チームもグループステージで敗退。なお、このアンリの1得点が今大会のフランス代表唯一の得点である。

EURO2008終了後の最初の試合となったスウェーデンとの親善試合でフランス代表のキャプテンに任命された。

 


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