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6日に行われる2010年ワールドカップ(W杯)・南アフリカ大会欧州予選、カザフスタン戦に向けてイングランド代表合宿に参加中のチェルシーのフランク・ランパードは、カルロ・アンチェロッティ新監督に対する信頼を示すとともに、チームの先行きに大きな希望を持っているようだ。
「新監督について聞くのは良いことばかりだ。人間性はもちろん、監督としてもね。ここに参加しているチェルシーの選手たちも皆、チームの先行きに大きな希望を持っている」

 2シーズン連続でリーグ優勝まであと一歩のところまで迫りながら足踏みしてきたチェルシーだが、選手たちにその焦りはないという。
「確かに僕たちは、あと一歩のところまで来ていた。だが、まだ何も勝ち取っていないんだ。僕たちは強いチームだし、クオリティーの高い選手がそろっている」

 とはいえ、ランパードは来たるべきW杯予選の2試合(カザフスタン戦、アンドラ戦/10日)に集中している。
「この2試合で勝ち点6を獲得することができれば、それは予選突破への大きな一歩となる」

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フランク・ランパードFrank James Lampard Jr.1978年6月20日 - )は、イギリスロンドン出身のプレミアリーグチェルシーFC所属のサッカー選手。ポジションはMF。愛称はランプス。常人より大きな心臓を持ちそれゆえのスタミナ、肺活量を誇る。

少年期

1978年6月20日、父フランク・シニア、母パットの間に生まれる。裕福な家庭に育ち、学業も優秀であった。またクリケットでも地元の代表チームに選抜されている。パブリックスクールであるブレントウッド・スクールを卒業。イングランドでは労働者階級のスポーツとされているサッカーにおいて、パブリックスクールを卒業している選手は非常に珍しい。一番恥ずかしかった思い出は15歳のときに、ウェストハムのユースチームの試合に出るために学校を休み、翌日、校長室に呼び出されたことであるという。それ以来、サッカーのために学校を休むようなことは二度としなかった。ランパード家はサッカー界の名門として知られ、父のフランク・ランパード・シニアも元イングランド代表のサイドバックであるほか、叔父はトッテナム・ホットスパーFC監督ハリー・レドナップ、従兄弟に元イングランド代表MFジェイミー・レドナップがいる。

1995年ウエストハム・ユナイテッドでキャリアをスタート。その後スウォンジー・シティにレンタル移籍する。復帰後はあまり活躍できずにいたが徐々に頭角を現していき、1998-99シーズンは全試合に出場する。そして1999年イングランド代表にも招集され着実に成長していく。しかし、ウエストハム・ユナイテッドでは数シーズンに渡って経験を積むが、伯父のハリー・レドナップが監督、父親のフランク・ランパード・シニアがコーチであったために、調子が悪いときには批判のターゲットとなっていた。ファンから愛されず、またレドナップ、フランク・シニアが不明確な理由でクラブから解雇されてしまい、自身の環境転換の為に2001年夏に1100万ポンド(約24億円)でチェルシーへ移籍する。移籍後は、センターハーフとしてすぐにレギュラーを獲得、毎シーズン10ゴール以上記録するなど、中心選手として活躍する。

イングランド代表GKのデイビッド・ジェームズが保持していたプレミアリーグの連続試合出場記録を更新、2005年12月28日マンチェスター・シティ戦でウィルス性疾患のため遂に欠場するまで、足掛け4年・164試合連続出場という大記録を樹立した。この期間、ランパードはミッドフィールダーという消耗の激しいポジションで怪我をしなかっただけでなく、累積警告による出場停止もなかった。前記録保持者がGKであったことからも、いかにこの記録が偉大かが伺える。

モウリーニョ監督の「国内選手にクラブを引っ張ってほしい」との方針から、チェルシーでは副キャプテンを務める。2006-07シーズンでは故障がちなジョン・テリーに代わって、多くの試合でキャプテンマークを巻いている。

2008年のシーズンオフにはモウリーニョ率いるインテルへの移籍が噂されたが、最終的にはチェルシー残留を選んで5年契約を結び、チェルシーでキャリアを終える意向を明らかにした。[1]

 

[編集] 代表

1999年10月10日ベルギー戦でデビューを果たす。デビュー後しばらくは目立った活躍をすることはできず、2002年日韓ワールドカップではメンバー選考から外されてしまう。しかし、チェルシーの躍進とともに自身もコンスタントに代表で出場機会を得るようになると、ユーロ2004ではレギュラーとして出場し、準々決勝で敗退するが、自身は3ゴールを記録する活躍を見せた。大会ベスト11にも選出された。

2005年バロンドールFIFA最優秀選手賞共にロナウジーニョに次ぐ第2位の得票数を獲得。イングランド代表の同僚でリヴァプールのキャプテンスティーヴン・ジェラードと並び、世界最高のセンターハーフの1人とも評されている。

2006年ドイツワールドカップ予選では5ゴールを挙げるなど、イングランド代表をドイツへ導く活躍を見せた。しかし、本大会ではフリーの場面でボレーシュートを蹴り損なうなど調子に乗り切れず、準々決勝敗退後は批判に晒された。

しかし、最近では徐々に調子を取り戻し現在のイングランド代表のセンターハーフとしてジェラードを凌ぐ活躍を見せている。

殆ど怪我をしない丈夫な身体で、また心臓が普通の人より一回り大きい為スタミナの強さは誰もが認める武器である。中盤での激しいディフェンス力に加えCHとしての非凡な展開力、自ら積極的にゴール前に進出し、身体を活かしたヘディングに力強いシュート、ドリブルも上手くゴール前での存在感はFWも顔負けである。クラブではFKからも多くの得点を上げており、枠内に蹴り込まれる無回転のミドルシュートは強烈である。PKにも自信を持ち、吹かすことは皆無に等しい。代表では、2006 FIFAワールドカップ予選からここ一番でのPK失敗が目立っていたベッカムに代わり、PKキッカーを務めている。

スペイン出身の2つ年上の元モデル、エレーンさんと婚約しており2005年の8月には女児が誕生した。それに際してWBA戦では揺りかごのゴールパフォーマンスをしている。また、スペイン語を学んでおり、ACミランロナウジーニョ曰く「僕の英語より上手い」とのこと。
意外であるが喘息持ちである。
少年時代の憧れの選手はポール・ガスコイン
同じ歳で同じウェストハム出身のリオ・ファーディナンドと仲が良い。
2008年4月、母親のパット・ランパードが病に倒れ、リーグ戦を欠場して看病にあたっていたランパードだったが、24日に母は他界。その精神的なショックから、30日のチャンピオンズリーグ準決勝セカンドレグのリヴァプール戦を欠場するとの見方もされていたが、練習に復帰して気丈に振る舞うとクラブ初のファイナル進出をかけた重要な一戦にも出場、見事なパフォーマンスを発揮してスルーパスでドログバの先制弾をアシストするのみならず、PKの場面ではプレッシャーのかかる中で冷静に決めた。PKを沈めた瞬間には左腕の袖下に隠していた喪章に口づけし、感極まった表情で天国の母にゴールを捧げた。

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